【みんなの法話】不安をなくす考え方 – みんなの法話#1 活字ver
みんなの法話 #1(活字ver)
不安が無くなる考え方
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ご挨拶
皆さん、こんにちは、見性院の橋本英樹でございます。
今回は「不安が無くなる考え方」というテーマの法話をお送りしたいと思います。
これは老若男女を問わず、私たち常に不安ですね。
私も不安です。
そして、これから私たち中高年というんですかね。
もうある程度人生経験をして、いろんな試練もあるいは修羅場を乗り越えてはきたつもりですけども、それでも誰でも不安というのはなくなることは生きている限りないと思います。
今日は不安のとりのぞき方という非常に普遍的なテーマであり、身近なことについてお話しさせていただきます。
不安のない人などいない
不安のない人はいないわけでございまして、それを仏教者の立場から今、それに対してどこまで答えられるかというですね。
私なりにずっとこれまで不安と戦ってきたわけでございますけども。
ただ、若い時の不安と今の不安はだいぶ違うのかなと思います。
本当に若い時は夜も眠れないあるいは1週間悩むとかですね。
とても現状では、いたたまれないことも随分あったと記憶しております。
不安に対して肯定的になるべし
ただ、今、いろんな仏教の勉強させていただき、修行させていただき、人生経験を経た中で、むしろ今は肯定的といいますか。
人間不安であるからこそ、生きている意味もあるんだなって思いますし、私たちある意味立ち止まることはできません。
よく自転車操業という言葉がありますけども、私はいつも人間瀬戸際できてた方がいいと思います。
追い込まれる時がなくないようでは、本当の自分の人生を深く考えることはないと思います。
むしろ追い込まれて追い込まれて、もうどうしようという時に、私たちはその正念場ですね。
その時に自分がひと皮むけたなというそれを超えた時に、その境地に至るものでございます。
「修羅場」と「正念場」を超えて人は強くなる
今、修羅場とか正念場という言葉を言いましたけども、これもまさに仏教語でございます。
正念っていうは正しく念じるってことですね。
窮地に立たされた時をよく正念場と言いますけども、追い込まれたと聞く程正しいよ思いが大事なんですね。
正しくを持って正しく行動してナンボの世界ですねですから、
これは神仏から与えられている自分自身の覚悟でありですね。
自分を犠牲にしても人を助けたいとかですね。それが私人の正しさということじゃないかなって思うんですね。
正念場あるいは修羅場ってありますけどね。もう怒り心頭のこともありますよ。
あるいはもう心がズタズタって言うんでしょうか。
本当にそういう修羅場っていうのがありますけども。
でも、また修羅場を経てですね、私達は、こういう本当にこう言葉にならないような苦しみ、もがき嘆き、そういうものを経て初めて日常生活平穏でいられることが何とありがたいのかってことが、より身に染みてわかってくるものでございます。
ですから、人間というのは、修羅場、あるいは正念場を経てなんぼじゃないかなと思います。
そこで私なりにこの与えられたテーマである不安ののぞき方について、今私が答えられる範囲で私の一つの哲学ですか物の考え方についてお話ししたいと思います。
自責の念を持つべし
私は常に不安は抱えていますし、常に問題提起というでしょうかね。
自分に対して自問自答して生きていますし、人間やはり人生というのは一難去って、また一難っていうのはもうこれは一生続くわけでございます。
人の一生は「重荷を負うて遠き道を行くがごとし」とはよく言ったものですね。
その中で大事なことはですね、不安を生きてるからこそ、私たち生きる意味があるって言ったんですけども、その不安をどうしたら除ていけるかってことなんですけども、あの私、最近思うんですけども、全てこの不安とか、自分にの課題悩みっていうのは全て自分の中にやはり原因はあると思います。
あるいはあったというのが私の実感でございます。世の中の仕組みがどうなんだろうか。
社会が政治があるいは相手が悪いっていうのがつい私達、自分のことは見えないです。自分のことは棚上げにしてますね。
自分が見えてないんですねですけども、全ての原因は自分にあると思って、
「自責の念」に世間の根っこから自責の念に変わった時におのずと答えは見えてきます。
そうなんですね。自分が断捨離をすれば良かったんですね。
自分の生き方があるいは自分の習慣自分の癖日々の自分の行動に問題があったんですね。
だから相手ではなかったということを悟ります。
その時に初めて不安が少し和らぐんですね。
そして、結局、目の前にの問題は、自分の中に答えもあったということでございます。
ですから、よく自分を変えれば人も変わるっていう言いますけども、人はそんな簡単に変わらないでしょうねですけど、自分のものの対する考え方。
もっと言うならはっきり言うと自分に原因があったということを知ることによって不安は取り除かれますね。
むしろ問題の解決に向かうということでございます。
そして、そこに答えがあるんですけども、答えというのもあってないようなものです。
はい、その答えに向かって修行していく業じていくことが仏教でございます。
その業じていく中で、私たちはに救いがあるんですね。
不安を取り除く時間帯がありますですから、不安というのは尽きないんですね。
悩みも尽きませんですけども、行事ていく自分。
これはこの課題は自分に対する修行なんだと思って、自分に原因があるという風に自分の中で悟ればですね、その不安はおのずと解消されていくというのが、私の世界観仏教観でございます。
不安の取り除く哲学「すべては神仏が与えてくださったヒントである」
私の何年か前に考えた私の一つのものの考え方の哲学があります。
私も57年来て言えることは、自分の身の上に起きることは全て自分にとって必要なことしか起きてなかったということを知りました。
そして、これでも自分ごときものには本当に過ぎたものだなもったいないことだな。
言ってみれば俺でも最善のことを与えていただいてたんだ。神仏にというですね。
そういう宗教観を持てるようになりました。
そして、起きてることっていうのは全て良くなるために物事は起きていきます。
起きるべきして起きてますですから、それに対して嫌がったりするっていうのは自分のエゴでございます。
それは自分が成長するためにわざわざ神仏がそういうヒントを与えてくれてるんだと思ってですね。
私たち人間というのは、そういう謙虚な気持ちが大事かなと常に神仏は私たちを大人にしめるために1人前にしているためにいろんな試練を与える。
そういう警鐘を鳴らしてくれてるんだと思えばですね、私たち本当は何て言うんでしょうかね。
自分が本当は幸せだったっていうことに気づくことも、仏教の悟りではないかなと思っております。
まとめ
もう随分くどく話すしておりますけども、結論から申し上げます。
不安ののぞき方っていうのは、自分の中に原因があったということを突き止めて我が身を振り返ってですね。
そして、自分が成長するためにこの運命はあるんだと神仏がわざわざこういうシチュエーションを与えてくれてですね。
「これがいいんだよ」っていう天の声なき声を聞けるようになることが仏教の修行であり、悟りではないかなと思っています。
これが私の今考える不安のとりのぞき方でございます。
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