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住職人生としては後半戦

最近に思うことは今はひとりで朝のお勤め、鐘打ちから読経、坐禅瞑想、掃除。精進料理、トレーニングも毎日欠かすことのない日々でとても楽しいです。ひとりで過ごす早朝の時間帯がこんなに快適だったことです。今は住み込みの人もなく夏休み中は家族も不在、これだけの大寺院にして一人暮らしを楽しみました。改めてひとりが一番好きです。何をするのも。ジェフ・ベゾス(Amazon創業者)曰く、孤独の遥か先に成功があるとは名言かと思います。徹底的にひとりでやり抜いた人しか悟りの境地には至れないと思います。結局は人間は自分ひとりの世界を構築して自由自在に遊行僧としての道を歩むことに勝るものはないと最近はつくづく思います。

私などは自分を磨き続けているために何かに困るようなこととかは何もありません。常に仕事はあるし生活に困窮することもないし立ち行かなくなることなど一切ありません。ただ自己研鑽をしているだけです。自己投資と。そのために引くて数多であるだけです。ただ人を幸せにすることはしているしそのための工夫に怠りはありません。利他の心の実践行に滞りなく勤めております。お坊さんとの付き合いは最低限にしています。近隣寺院とは一線を画して本当によかったです。それでも何も困ることは一切なかったです。ほとんどいらない人たちです。最近は若くて有能な僧侶が矢継ぎ早に見つかってきており何とかなるものです。できれば若い僧侶の方がよいという人の方が多いです。そして人気もあります。高齢僧侶や中途出家者は癖が多くて嫌われがちです。僧侶も常にふるいにかけられて淘汰されていくべきです。そうでないと世間から取り残されていってしまいます。当院は時代が追いつき噛み合って来ているのだと思います。見性院への流れが自然とできて吸収できつつあります。自然淘汰と新陳代謝の中で当院は大発展を遂げていくことになるはずです。波も風もつきも来ております。あとは安定飛行の中でしっかりと乗ることだけです。身は軽くして重心は重く信念は固く心は柔らく生きたいものです。拘束されずに。当院は職員との忘年会や会議、食事会、旅行とかも一切ありません。仕事に集中してもらうだけです。ノルマもなく結果の出ない人は自ずと辞めてもらうだけのシンプルな世界です。檀信徒集会やら行事もありません。これまで宗門がやってきたこと、寺院がやってきたこと。私がしてきた行事のほとんどは無駄でした。すべてやめてみてほっとしてます。解放されました。もうお寺は終わっているのだと思います。成功例を聞いたことはありません。

今はひとりでいることがもっとも幸せな時間帯です。そこで自己を磨き上げて世の中に還元している、これだけです。それだけで充分に生活はできるし何も困ることも心配事もありません。常にお声はかかるし営業など無縁です。高額でも住職指名の葬儀や法事はもの凄く多いです。そのため亡くなって一週間後の葬儀に葬儀社の都合によってされてしまうことは予定が立たなくなるため困ります。一週間待ちは遺族も疲弊します。私も待ちくたびれます。その間に出掛けられなくなることもしばしばです。これが頻繁に続けば抗議をしないといけません。そこまで火葬予約が取れないことはありえません。当院は火葬の空き状況を常にウォッチしております。ほとんど空いていることはわかっております。当院に依頼した場合は死亡してから二、三日後には必ず葬儀を行うことはできます。土日、祭日でもできるだけ都合をつけられます。顧客第一主義でやらせてもらっています。利益優先はまったく考えておりません。火葬予約が取れないのはせいぜいさいたま市だけのはずです。今は職員の体制も充実していて効率や利益率、生産性も向上しました。人事に無駄があってはいけません。何もしない人や無能な人を置いておいても百害あって一利なしです。これまでは私が認識が甘すぎました。今やなんの宣伝もしなくても引っ切りなしの状態です。お客様がお客様を連れて来てくれる、紹介してくれるまさに理想の寺院です。広告宣伝費のいらない領域に入っております。職員を最低限の少数精鋭にして足りないところは外部委託がもっともよい循環をつくることもわかりました。財務も人事も人間関係も贅肉も削ぎ落としして筋肉質にすることです。私はファスティング(食事制限)とトレーニングによってバキバキでキレッキレの肉体改造にも成功しました。心も体も今がもっとも安定していて毎日がとても快適です。もっともよい人生、生活、仕事、人間関係、環境を築くことに成功したと思います。

もう迷いもありません。ただこのスタイルを貫くだけです。恐れるものなど何もありません。夢の実現のために今をひたすらに生き抜く覚悟だけです。人に気を遣うこともなく遠慮もありません。ただ堂々としているだけです。自信満々で。不愉快なことがあれば人などサッと斬って仕舞えばよいのです。それがもっとも気持ちよく生きられる方法であることもわかりました。思うがままに。日々楽しくやることが秘訣です。たとえ苦しいことでもこの哲学を身につけていれば楽しみに変えていけます。そうして生きていれば光明が差しオーラは自然と放たれていきます。それにより人を魅了してやまなくなります。すべては自由自在となります。それが今の私の悟りです。漸くここまで辿り着くことができました。理想の境地です。これぞ出世間かと。これが釈迦が目指したものだったのかと思うこともあります。孤高にして蓮華座に住していれば何もしなくても生きていけることもわかってきました。見性院という空間も理想的桃源郷になって来ているのだと思います。思い通りにならない世界を経て今や思うがままになすがままに暮らしております。行き当たりばったりにただ成り行きのままに。すべてのことは自分の中にあったので自分の中に問いも答えもあります。これが道元の言う、自己を習うなりかと。釈迦の言う、自燈明とは自分の問題はすべて自分で解決できる、いや自分しか解決できないと言う意味のはずです。他人にはわかりません。それが仏教です。いかにして孤独に生きるかを教えたのが釈迦仏教です。それを考えるともう宗派や宗門、教団と言われるものの役割はなくなっていくと思います。と言うかもう支えられないし時代とともにその役割を終えようとしております。自立した寺院と自律した僧侶の時代がきます。

スマホはジョブズは本当に時代を変えました。これさえあれば世界中をひとりで飛び回れるのですから便利な時代です。もう群れる意味などありません。本当に自分の行い通りに世の中は回っております。まさに自分を映す鏡であり自分を知る座標軸でしかありません。それを知ることが人生かと。生き方は死に方でした。涅槃とは完全燃焼の果てのやすらぎでした。仏教者の目的は涅槃寂静です。これは日々の修行の果てにあるものかと。どこまで行っても人はひとりでしかありません。自分という船に乗っている乗客は自分ひとりしかいません。人生航路はひとり修行です。このひとりを楽しめこのひとりを極めてこそ達人です。その最高位の王者が釈迦なのでしょう。仏教とは唯我独尊でありただひとり歩むものです。それを得たものは極楽浄土を得ることになるのだと思います。だから何もしなくても生きていけます。そういう人生を歩みたいものです。生死即涅槃。生死、よく涅槃と心得て生死として厭うべきものなく涅槃として願うべきもなし。この時はじめて生死をはなるる分あり一大事因縁と究尽すべし。目指すは涅槃であり生き方でもなく死に方でもない。だからと言って涅槃の境地に辿り着きたいと思ってもいけない。執着は離れないといけない。この時に生死からの解放がありもっとも重要な課題がそこにはあるのだ、というのが私の見解です。汚泥に浮かぶ泥舟になるのではなく一輪の蓮の花になることです。ひとりひとりが釈迦になれば教団はいらなくなります。これが私の仏教です。合掌

令和6年10月4日 見性院住職

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