異次元と低次元
なぜ僧侶の資質が低俗化して今や成り手がいないのかというテーマでのご質問もいただいております。私なりの歯に衣着せぬもの言いで持論を展開してみたいと思います。私はこれまでできるだけとんがって突き抜けてぶっ飛びながら生きてきたようにも思います。それが功を奏して我儘に自分の生きたいような人生を得ることに成功しております。独学主義、独創主義、独断主義です。独特で独自の生き方を貫いております。ただこれは宗門や村社会ではもっとも嫌われて弾かれます。この社会はもたれ合って傷を舐め合い牽制し合って生きていく構造で成り立っております。前近代的であり現状維持の思想です。極めて保守的封建的です。ここからは改革者は出てこないし人物人材の輩出は絶対的にありえません。宗門全体がこの思想に覆われているために地盤沈下をしており停滞ムードが常に漂っていることになります。独創的な発想を嫌い足の引っ張り合いと妬みの世界が蔓延しております。優秀な人はさっさと見切りをつけて別世界へ旅立ってしまいます。どんなに頑張っても評価されることはないし窓際に追いやれるのが関の山です。私がこの十数年間、寺院大不況、大衰退時代にこれだけの実績をつくっても評価をされることはありませんでした。これが宗門、寺院社会です。5億円を超える私財を投入しております。まったく新しい寺院システムを構築していながらです。これでは誰も寺院運営などやりたがりません。ましてや宗門大学や本山、地方僧堂に学んでもそれがその後の人生に生きるようなことはほぼほぼありません。実社会で活かせるようなことは何も学んでおりません。私はこれぞという人物を見たことがありません。なんの気概も気迫もない人たちの集団に成り下がっているようにしか見えません。独立採算も自立自走もできている人はほとんどいません。そんな世界を垣間見て若い人たちが魅力を感じるでしょうか。私はこんなつまらない人しかいない宗門や村社会の人たちの中で息子たちに後継を託すつもりなどさらさらありません。特にお坊さんの会合は堂々巡りの議論を繰り返しているだけで進展を感じません。青年会にも意義はありません。教区や法類、本末関係も崩壊していくと思います。私のように志を同じくするグループによる再編の時代になると信じます。私には今や各方面から訪れる人は絶えません。各宗派に親友がおり人脈は好人物ばかりで構成されています。人、モノ、カネ、情報に困ることは何もありません。私は早期に地縁、血縁、社縁、つまり地域の縁とか親族縁、宗門縁とかを断ち切って新たな人生を生き直すことを熟慮している現在です。すでにコミュニティは崩壊して機能不全にあり凋落の一途を辿っているに過ぎません。私の同期は早々に引退をして息子に後継を譲ることを英断しました。まだ59歳です。立派です。心から尊敬します。こういう人が出てこないと宗門は何も変わりません。転職、移住、転籍、引退をお勧めします。私ももっと頑張って範を示さないと思う今日この頃です。世代交代も一つのテーマですがそれだけでは変わりません。なぜなら次世代がまったく育っていない、いや育てていないからです。今の寺院社会、宗門に提言することがあるならすべてを御破算にして一からやり直せと言いたい。それ以外の解決策はなし。というのが私の提言です。一人一人がもっと実力をつけろ、修行をせよしかありません。何もしていなくても私のように引くて数多の人もいることを忘れないでもらいたいものです。寺院運営は活況を呈しており飛ぶ鳥落とす勢いは常にあります。自信満々です。曹洞宗の未来予測を公表してもどこ吹く風でしかありません。我が道を行き切っている眼中にあってはすべてはひと事でしかありません。それが仏道というものではないでしょうか。世間など関係ありません。どこ吹く風です。唯我独尊を堂々と生きていればよいのです。飄々と颯爽として余裕で生きていることが仏道です。我関せずです。それが答えです。極めて仏教はシンプルです。現実が問いであり答えです。何も悩むことなどありません。やるべきことをやっていればよいのですから。何が問題なのか教えてもらいたいものです。仏道は異次元の世界を生きるものです。宗門は低次元を生きてそれに埋没しているだけです。もっと世間に目を向けて迷える子羊から抜け出ることです。右往左往しているよりはもっと高次元に生きることです。同業者でつるんではいけません。切磋琢磨して鎬を削る戦いをすることです。世の中の人がいかに苦労して頑張っているかに目覚めることです。自分たちがいかにぬるま湯に浸かってのほほんとしているか目覚める時です。成道とは覚悟です。腹を括って生きられない僧侶など要りません。ぶら下がり僧ばかりなのが宗門です。本来は世の中を牽引して覚醒させるのが僧侶のお役目です。それが出来ていない人ばかりになったということです。檀信徒もその役割を果たせていないことも大いに問題ありです。一度、沈んで地獄を見ない限りは将来はないのかもしれません。釈迦の鉄槌を浴びせられてそこから這い上がっていくこともありかもしれませんが。久しぶりに毒舌を吐かせていただき私はスッキリしました。最後までの拝読、まことにありがとうございました。合掌
令和6年12月11日 見性院住職