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業界に対して物申す、ズバリ言うわよ

最近の供養産業界の一傾向について私見を述べたいと思います。私がこの業界に携わって早二十年の歳月が流れました。紆余曲折、波瀾万丈ではあったと思いますし激動激変の世の中でした。思い返してみますと二十年前ほどから家族葬という言葉が世に流布して来ていて今や完全に市民権を得るまでに一般化しました。皮肉にも家族葬こそが一般葬儀になってしまったのです。それもここ数年は都会だけでなく田舎でも参列者が10人前後にまで減少しております。2、3人のこともあります。

かつて家族葬時代に突入してその嚆矢としてそれを望んで執り行った葬家の人に私はなぜ家族葬なのかをお聞きしたことがあります。その方曰く、父の時に一般葬を執り行い300人を超える参列者に圧倒、翻弄されて目が回るほど忙しかった。弔問客への対応、接客。生花や供物、返礼品の発注。接待としての料理の準備などそれは短時間でできるものではなく寝ずに準備をしてもうすっかりヘトヘトになりました。もう母親の時には勘弁してほしいのです。とのことでした。母の時はしめやかに家族だけでゆっくりと一晩過ごしてお見送りをしたいのです。最後は病院に何日も泊まって寝ずに看病してそれから葬儀の準備などとてもできません、と。その後も会社や近所、親族への挨拶回りもありました。そしてそのあとは来ていただいた方にはまた先方の葬儀に駆け付けないといけない借りができてしまいました。と。

これはもう今の時代、お付き合いの嫌いな現代人にはそぐわなくなったということです。退職をして暇を持て余している暇人老人の単なる暇つぶしでしかありません。事実、私も葬儀の時に年配、長老の意地悪な暇人が偉そうに受付に来て居座っているのを見ていつも不愉快でした。何かあると難癖をつけてくる人たちでした。今は嫌気がさしてその老人たちとは一切、顔を合わせません。清々しております。隣組が来る葬儀などいらないと思います。特にうるさい地区がありました。最近は火葬場でお坊さんに会う機会がめっきり減ったようにも思います。かつて一般葬と言われていたものから家族葬になりました。これからはそれがさらに火葬式に変わっていくのかもしれません。それはなぜなのか。葬儀には多大な費用がかかります。そして不透明です。それを是正するためにインターネットによる仲介業者によって価格破壊がもたらされました。僧侶派遣会社の登場も軌を一にします。これにびっくりしたぼったくりの葬儀社やお坊さんたちは目の色を変えて憤慨したものです。ただこれは悪しき習慣が常態化した斯界にとっては冷や水となり一定の効果はあったと思います。しかしながら今や完膚なきまでに搾り取られて業界全体が疲弊し辟易してしまいました。悪貨が良貨を駆逐することになりその役割もこの辺で終わらせないといけません。業界全体が陳腐化してしまいそうです。下請けの葬儀屋さんも派遣のお坊さんもモチベーションが下がってやっつけ仕事になっているだけです。そのために質のよくない葬儀が横行乱行しております。それが火葬式への流れをつくっているようです。

そもそもお葬式はしないといけないのでしょうか。一日中、あるいは二日間も時間を割いて香典を包み、生花や供物を依頼し会食にも付き合わされます。私は小泉進次郎と同じで集団行動は大嫌いです。唯我独尊の信奉者です。母親の時は焼香参列、生花、香典とすべてご遠慮をしてもらいました。立派な花祭壇は故人の遺言だったため叶えました。があとはお弁当を配って終わりました。法事には親戚はご遠慮をしてもらいました。それでよいと思います。そもそもお葬式には生産性はなくただ遺骸を火葬して灰にするだけのことです。そこにお坊さんが本当に関与をする必要があるのか今の私にはわかりません。遺族が信仰する宗教があって信頼する宗教者に寄り添っていて欲しいとのことであれば必要なこともあるかもしれません。慣習としてはもうなくなってもよいと思います。その役割は終えたと思います。終えようとしているのかもしれません。

フランスはパリに5年間駐在していた僧侶の友人からフランスの葬儀事情について教えてもらったことがあります。パリの斎場では利用時間は1時間以内、生花と写真は家族が用意すること。宗教儀式は30分以内。お別れの時間が30分と厳格に決められているそうです。併せて1時間とのこと。極めて簡素で費用はかからないそうです。そのあと炉前まで行って終了。遺骨は翌日に引き取りなんだそうです。まったく無駄がなく余計なことは一切しないそうです。会食も会葬もないそうです。

葬式で飯を食っている宗教者、お坊さんというのはおそらく日本だけだと思います。葬式がなくても生活できるお坊さんになっていってはじめて本物かもしれません。あるいはどうしてもあなたさまにお願いしたいのです。と。懇願されてはじめて僧侶です。それ以外は僧侶とは言えないと思います。だから私は僧侶は本物を目指せと言っているのです。そして出家は10代か20代にと言っているのです。あとは定年退職後に金銭欲、名誉欲をすべて捨て去った上でだけならと言っているのです。また尼僧様はできれば既婚者でない方がよいです。慎しまやかで清純で質素、そしておしとやかな人に限ります。どうしても既婚者の尼僧様はより世俗化してビジネルライクに陥りがちです。私はそうした尼僧様を数多く見て来てうんざりです。かの青山俊董老師が基本的に尼僧の結婚は認めないというのもわかる気がします。また葬儀社のほとんどは尼僧様をお断りです。某霊園にはよく有髪の尼僧様がいて何となく滑稽です。失礼ながら。僧侶とは基本的には何処から見ても僧侶にしか見えないようでなかったならウソです。

私は最近、年配の僧侶たちに引退勧告をしております。それはなぜか。いい年してお坊さんになった分際で自らの売り込み、戒名のランクアップの裏交渉、お布施への不満と。とても高齢者とは思えない僧侶が多いのです。まったくもって勘違いをしてしまっているのです。少しは若い人に範を示すことができないものかと。いい年して稼ぐことばかりの高齢僧侶がいることには辟易します。葬式仏教は釈迦のためならず、なのかもしれません。お葬式というお金儲けに群がった人たちがこれから火葬式という時代の中で忘却の彼方へと追いやられる日もそう遠くはないのかもしれません。お金が稼げるから医者とか弁護士に、ならわかります。それがお坊さんにはどうなんでしょうか。私は不思議でしようがありません。なぜそんなことは一切考えないで志高く気高く生きていれば何も心配することはない。ただ毎日毎日を修行と学究のためだけに心血を注いでいれば必ず結果としての浄財はご本尊から神仏から与えられると思えないのでしょうか。なぜこうも営業をするのでしょうか。なぜ出家をして僧侶になったのか自問自答をしてもらいたいと思います。なぜ与えるということをしないのでしょうか。世俗の垢まみれの人は出家をしてはいけないと思います。罰当たりですから。こうして袈裟を纏い仏道を生きられてそんな高齢者になって法外なお布施をもらっていてよいのでしょうか。そんな人ばかりが私の周りにも目立っております。末法の世とはそういうものなのかもしれませんが。

供養産業展とかも何処も年々歳々、下火で活気はありません。最終的には寺院ですべてをやるか、あとはフランスのように簡素なホームメイド葬にするか、どちらかのようにも思います。死体をただ金儲けのために利用するのではなく残された人たちのためにお葬式はするものです。それも営業的ではなく奉仕的にです。そもそもお坊さんがお布施の中身など見る必要はありません。本来、個人事業主としてやるものではありません。政治家や宗教者は滅私奉公が使命です。飲みニケーションなどいらないと思います。接待交際費もなくてもよいと思います。ただ公のため尽くしていればよいのです。

私は禁煙禁酒はもとよりほぼベジタリアンです。そして一日一食にしました。飲食費はほとんどかかりません。ゴルフやギャンブルもしません。お布施を浪費することはほとんどありません。それは僧侶としてはごく当たり前だとも思っております。だからいつでも堂々としていられるし人に媚を売ることはありません。心配事もありません。やることをやっていれば何も悩むことなどありません。言いたいことを言えてるしやりたいようにやれています。実によき人生です。それがお坊さんというものではないでしょうか。お坊さんになった以上は不平不満から解放されることです。自由人になられるのですから。浮世離れして飄々と生きることです。何が起きても一喜一憂はしないこと。めでたくもありめでたくもなし。災難に遭う時は遭うが候。一休さんや良寛さんの心境で生きたいものです。恰好とは禅語のようです。何が降りかかって来てもよし来た、何だそうです。どう転んでもすべてよし。風流に生きる。そんな境地を目指して愚僧は今日も行く。果てしない荒野の中で。ただひとり涅槃へと。合掌

令和6年9月8日

見性院住職

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